35 アガンベン・例外状態・新型肺炎

20200302 月曜日

 昨日、実施されるはずだった勉強会がコロナウイルスによってキャンセルとなった。「緊急事態宣言」とかいう、意味があるのかないのか判然としない言葉が飛び交うタイムライン上を見ながら、親しい先輩が発表するはずだったカール・シュミットに思いを馳せていた。「緊急事態」の文字列によって、『政治神学』を想起したからであるし、また、3年ぶりに会ったゼミの同期のH君が「アガンベンコロナウイルスと例外状態について言及しているらしい」と教えてくれたからだ。検索してみたところ、アガンベンはどうやらイタリアの左派系メディア「イル・マニフェスト紙」に寄稿していたらしい。元記事が見つからないし、見つかったところでイタリア語もフランス語も読めないので、英訳でお茶を濁すことに:

positionswebsite.org

 疫学的な統計に依拠したところコロナウイルスは致死率が他の疫病に比べて高いわけでなく、実際には社会がパニック状態になるレベルではないにも関わらず、メディアや当局は「パニックの風潮を作り出し、地域全体において日常生活や労働を停止させたり、移動に厳しい制限を設けるといった真の例外状態 a true state of exception」を引き起こしている、とアガンベンは指摘する。

 学部生の頃は「例外状態!ホモ・サケル!剥き出しの生!」と叫びながら飲み会をしていたわけで、おなじみの飲み会コールのようなものだったが、あらためて『例外状態』を確認したい。アガンベンは例外状態について以下のように言及している:

例外状態というのは、なにか特殊な法(戦時法のような)ではないのであって、法秩序それ事態を停止させるものであるかぎりで、法秩序の閾あるいは限界概念を定義したものなのである。

G.アガンベン『例外状態』「統治のパラダイムとしての例外状態」p14

実際には、例外状態は法秩序の外部でも内部でもないのであって、その定義の問題は、まさにひとつの閾にかかわっているのである。

同 p50

 アガンベンの寄稿に立ち戻ると、アガンベンは、この事態を説明するには2つの要因が役立つとし、背景を分析している。1つには「例外状態を通常の統治のパラダイムとして用いる傾向が高まっていること」、もう1つは「恐怖の状態」。恐怖の状態とは、曰く、「近年、個人の意識に満ちわたっており、集団的なパニック状態の真の必要に転じ、そして(新型肺炎の)流行があらためて理想的な口実を与える」ものという。訳しづら!なお、「必要」とはテクニカルタームだったことを思い出したので以下引用:

 よく耳にする意見によれば、例外状態の基礎におかれるのは必要の概念である。しつこく繰り返されるラテン語の格言によれば、"necesitas legem non haber" すなわち「必要は法律をもたない」というわけである。そして、この格言は二通りの正反対の意味に解されている。ひとつは「必要はいかなる法律も認めない」というものであり、もうひとつは「必要は自らに固有の法律を創り出す」というものである。しかしまた、どちらの場合でも、例外状態の理論は必要状態 status necessitatis〔緊急事態〕の理論に全面的に解消されてしまっており、例外状態が合法的なものであるかどうかという問題はもっぱら必要状態が存続しているかどうかの判断にかかっている。したがって、例外状態の構造と意義について論じるには、必要という法学的概念の分析が前提となる。

同 p51

 そして最後に次のように結論づけている。「政府に課された自由の制限は、安全の欲求を満たすために介入している同じ政府によって作られた安全の欲求の名の下に受け入れられている」。訳しづら!ともかく、これまで例外状態について考察する際には国家の安寧を脅かすものとして戦争や内戦などを念頭に置いていたが、これだけ現行の法秩序を超越した政治的な決定が連発され、あまつさえ首相が「早期立法を目指す」なんて言っている報道を見ていると、スゲエな、ホントに例外状態じゃん、言葉が受肉してるぜ!という気持ちになってくる。といってもアガンベンにもシュミットにも大して詳しくないので、サークルの面々とこのアガンベンの寄稿について議論したいものである。