24 最近のこと

20190902 月曜日

 

 信仰を持とうかな、と、おぼろげに考えている。

 学生のころ、ヨーロッパをしばしば訪ね、ありとあらゆる教会で祈ったことを思い出す。「助けてください、善く生きたいのです」と。

 11歳のころ、死ぬのが怖かった。肉体が滅び、誰からも忘れられることが怖かった。書物に救いを求めた。どうしたら安心して死ねるだろうか、と。トルストイを読んだことは、その後の人生を規定したと思う。死んだら、蓄財や、所有物は意味をなさない。自分が所有するものや成果は、すべては神がお与えくださったものだから、周りの人と分け合わなければならない。むしろ、分かち合うことは喜びだ。

 敬虔に祈り、神のために働く日々を送ることができたら、どんなにいいことだろう。神の存在を近くに感じなければ、やっていけないようなことが多すぎる。私のことでなくとも、どうしてこんな仕打ちをなさるのですか。どうして幸せと苦しみが万人に等しい量で与えられないのでしょうか。もう辛い、ここから離れたい、でも悲しみをちょっとでも請け負いたい、力になりたい、嘘だ、本当は商売がしたいだけなんだろ、お前の能力を誇示したいんだろ、上に怒られたくないだけだろーーと自己批判の声が行ったり来たりする。信仰を持ったら、状況はましになるのか。偽善は善に正しく変化できるのか。

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 北海道に、いろんな人が訪ねてくれた。

 週末には、学生のころから今までずっと、もっとも尊重し、尊重された人たちと会った。8月は、大切な人と多く会えたのだが、その締めくくりだった。一番、北海道に来てほしい人たちだった。あまりに豊かな3日間を過ごし、帰りを見送るのが切なかったので、なるべく顔は見なかった。市場で鮮魚や海産物を探しまわり、輝く稲穂、青い波濤、翳る山々の緑、原子力発電所、様々なものをともに見た。

 ただ悲しかったのが、もう私が研究者や研究動向だとか、アカデミックな分野にまったく明るくなくなってしまった(もともと明るいわけではなかったが、関心はあり、勉強はすこしばかりしていた)と、はっきり感じ取ったことだった。予言は的中した。文献を読む筋肉は、文献を読まなければ衰える。一方で、仕事のための筋肉が発達し、人生は筋肉によって導かれていく。

 それでは私たちを絆すものは何か。知性を欠いた不謹慎や秩序を乱す人間への呪詛が残滓としてこびりついているだけだったら、いっそう悲しい。そうならないためにも、仕事をしながらでも、勉強しないといけない。「好き」で繋がっていた人たちは、「嫌い」で繋がってはいけないのだと、反省した。それは悲しいことだから。