25 当事者であること

20190902 月曜日

 

 当事者性に悩まされる人生を送ってきた。

 8年ほど前、学生運動に参加する人たちの中に入って、取るべき立ち位置がわからなかった。リベラルな家庭の教育の賜物か、財の分配、機会の分配、格差の是正には諸手をあげて賛同してきた。だが、いろんな人に「あなたはプチブルだから」「(卒業した大学名)の人間だから」と、恵まれた属性を挙げられては、「私とあなたは違う」と一線を引かれてきた。

 仕事で、ある倫理的/政治的立ち位置を明らかにしている人たちとの付き合いがある。また、自然災害で被害を負った人たちとも。だが、あらゆる局面で、私は当事者になれない。当然だというときもあるし、私の弱さがそうさせるときもある。投票先、政治的立ち位置、あらゆる選択、何を記事にするのか、すべてが「どの立場において当事者であるかを明らかにする」行為だ。逃げ回ってきた。

 たまに、その報復を受けていると思うことがある。

 当事者でないことは、リアルでないことだ。最近、ヒップホップを聴く。リアルでないことは軽薄で、「クソ」で「嘘つき」らしい。その自責は確かに感じていて、リアルでありたいと思うのだが、リアルな存在となって、私が何者であるかを明らかにすることについては、ここ8年くらい足踏みしているわけだから、たやすくはないだろう。