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20180303 土曜日

 

 前のブログを書いてから、相当に時間が経ってしまった。心も身体も疲れ果てた。

  この1ヶ月について書くには、疲弊の度を超えている。悲しいこと、憤ることばかりだった。だから、今日はすばらしいことを書こうと思う。友人の美しさについて。

 なぜ友人かというと、ひとつは、今日は心から敬愛する友人Tの誕生日だから。そしてもうひとつは、この一年で私の生活に欠かせなくなった大好きな友人Yが今いる場所をそろそろ離れるからだ。今日は、南の方へ家探しに行っているらしい。

 TとYはよく似ている。類まれなユーモアのセンス、愛すべき率直さ、誠実であることを絶やさない優れた人格をそれぞれ備えていて、嫌味のない気の遣いかたができる種類の人間たち。「気を遣っているな」と思われてしまえば、もうそれは気まずい応酬にしかならない。けれど、彼女たちの配慮はごく自然で、適切なのだ。

 さらに、彼女たちは直截的な物言いをするけれど、誰も傷つけない。むしろ、そのことが言葉の真実味を強調し、信頼しうるものにしている。 そう、彼女たちは人を傷つけないー誰をも面白がらせる話し振りをするけれど、誰も傷つけない。過度な自虐もせず、他人を貶めることもせず、彼女の目に映ったものを巧みな言語表現で以って伝える。特に意識されている態度ではないのだろうが、それゆえに素敵だな、と思う。

 そして、彼女たちのふるまいは、誰もが飽き飽きした、定型文や慣例をなぞっているわけではない(ように見える)。人間が20を過ぎれば、あらゆる会話は目の前の人をよろこばせるものと化していき、言葉の端々に意識を向け、不快にならない最大公約数を目指していくのだろうが、彼女たちはその重力に拘束されていない。

 しばしば、羨ましくなる。私が彼女たちを模倣せんと思えば、自分があまりに凡庸で偽装に満ちていることに気づいてしまうからだ。私も彼女たちのようにあれたらと思ったことは数回ではない。 彼女たちにはなれない。それをよく理解しているから、彼女たちとともにいたいと願うけれど、私は誰にもなれないし、一人でやっていく必要がある。だから、彼女たちの前途が明るいものであるように祈るだけにとどめておこう。そして願わくば、自分が彼女たちによって良き友人であり続けられたら。