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20180303 土曜日

 

 いつも好きに書けないから、リハビリがてらなんでも書こうと思う。すべて、現在への呪詛とノスタルジー。いつも懐古ばかりしていたら何にもならないということはわかっているのだけど。

 私が世界で一番愛するもの、一番片思いしてきた相手は音楽だ。無形の、もっとも優れて純粋な芸術。なかでもスクリャービンの音楽には、特別な思い入れがある。

 かつて、スクリャービン前奏曲を好んで弾いていた。前奏曲は全部で80を超える数があって、いくつもの楽譜をながめることが本当に好きだった。アラベスク模様のように音符が組み合わさり、まじりあう様子といったら!スクリャービンの楽譜じたいがもうそれだけで、ため息が出るほどに華やかなのだ。

 24の前奏曲、作品11を聴くと、いろいろな記憶の断片が蘇る。主に、まだ高校に通っていたころ。

 副都心線のなかで、制服の重たいコートに体をうずめながら、「戦争と平和」をたぐって、しあわせになりたいと願っていたこと、鉄道に乗ってどこかもわからない場所に降り立ち、駅前の花屋で鉢植えを買ったこと、吾野の駅のベンチに寝転んで倫理用語集をながめていたこと。薄暗い名曲喫茶スクリャービンを流してもらって、蒸留酒入りのコーヒーを大人ぶって飲みながら、バルビュスの「地獄」の、あの、一部屋への視線を自分のそれと同化させたこと、知らない土地の畑の横を通り過ぎながら白い息を吐いて星を見たこと。

 10代のころはもっとセンチメンタルで、寂しさとか切なさとか感傷とか、そういった甘えが美しいと思っていて、何も持っていなくて、弱くて、傲慢で、切実にしあわせになりたかったし、知りうるすべてを知りたかった。でも今は全然そう思わない。今は一人でなんだってできなきゃいけないし、できる。お金はあるし、どこへだって行けるし、適度な知識があって、適度にしあわせになる方法だって知っている。それで、あのときの切実さは、やりすごすことを知れば知るほどにいつのまにか消えてしまった。それが自分で自分の生活を担うということだから、いいことなんでしょう。だけど、このまま私は、生活に息の根を止められてしまうんだろうか、あの飽くなき海への憧憬はしおれちゃうんだろうか。

 最近の私は、社会制度にとても従順。学生の頃、着ていた服はすべて捨ててユニクロを着ている。ユニクロに似合う化粧はベージュベースのあまり派手じゃなくてキラキラしない感じの。毎日そうやって一日乗り切ってる。怠惰かどうかではなくて、適当以上に何かをする余力もない。だからここから飛び去ることは、今のところ全く考えてないけれど、一日たりとも忘れてはいない。