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20180125 木曜日

 

ブログを始めてみることにした。

 というのも、日々の些末な業務の蓄積で生活が成り立っている現状に危機感を抱いたからに他ならない。

 仕事はある種類のメーカーだ。部品を毎日作っている。人間のあいだで起こる出来事を、決められた型に嵌るように加工する。日々、求められるものは異なるが、作業の手順は特異なことがない限り一定だ。

初めは丁寧かつ迅速に作業しなくてはならないことに神経を使う。しかし、作業に慣れてくると、よほど作業を愛さない限りは手を抜くことになる。

すると、完成品も味気ないものになり、箱に入った電化製品の、箱との隙間を埋めるプラスチックの緩衝材のようなものと化す。ここ数ヶ月(11月半ばから現在にかけて)は緩衝材ばかり作っている。

不定期的に訪れる繁忙期でなければ、自ら素材を探しに行かなければ緩衝材しか作ることができない。その歯がゆさと、慢性的に感じる疲労を口実にした休憩という名の怠惰の合間で不快な穏やかさにたゆたうしかない現状から脱したいと切実に思う。

 とはいえ、実は1-2週間前ほどから実は繁忙期に入っている。3月末までの繁忙期だ。与えられた素材への思い入れー我々の仕事は、というより一般の労働は必要以上に時間を割くにふさわしい思い入れがなければ良いものは生産されないーがなかなか生まれないので、「与えられた素材以外の仕事に6割の労働力を割く」「与えられた素材に10割の労働力を割く」という2つの選択肢が私の前に指し示されているが、「与えられた素材に2割の労働力を割き、残りを腐らせる」という(私にはありがちな)ことはしたくないので、前者を選ぶ所存だ。

与えられた素材以外の仕事、というのが法律の勉強だが、これがなかなか面白い。興味深く学んでいるのが刑法と捜査法だ。また、来年度の作業に必要な知見や人間関係もそろそろ構築しはじめなければいけないだろうと思う。

 そして、重要なことだが、私の筋肉を労働力の再生と使用にのみ供じることはしないという意志をここで表明しておきたいと思う。この1年は、ただひたすらに作業の記憶と自己保存に時間をかけた。しかし、私は、この長くも終わりがある人生のなかで緩衝材とそれに準ずるものを作り続けていたくはない。電化製品も作りたくはない。私は技術を精確に分析したいという欲望を忘れ去ることができない。そのために、大学生のうちに携わっていたものを呼び起こさなければいけない。