22 被災者の移住先としての北海道

 20190725 木曜日

 

 北海道の広い大地を運転していると、さまざまな地名と出会うことがある。

 例えば、「ポールンベツ」「オンネトー」「古潭/古譚/古丹(コタン)」など。ごく一例だが、いずれもアイヌ語由来である。道内の地名の8割はアイヌ語由来というが、自治体名のみならず部落名も含めれば、およそ9割がアイヌ語由来になるのではないか。なお、例の「コタン」は「集落」を意味する言葉。アイヌの人々は、その土地の特徴を彼らの持つ言語で言い表していたため、道内で「コタン」という地名はきわめて多い。「モイワ」や「アシリベツ」も各地で見られる地名であり、それぞれ「小さな山」「新しい川」を表す。余談だが、このため、防災の観点からアイヌ語の地名を重視する研究者もいる。

 一方で、「北広島市」、「新十津川町」が代表するように、本州から北海道に移住してきた人々が集落を作り、集落名にもともと暮らしていた場所の名前を付けた、という経緯を持つ地名もある。カーリングで一躍有名になった北見市には「岐阜地区」「土佐地区」、釧路市にも「鳥取地区」があり、その地区では岐阜県高知県鳥取県から移住してきた人々が開墾し、集落を作った。北広島市広島県から、新十津川町奈良県から。また、地名に反映されていなくとも、北陸地方に特徴的な建築様式で建設された民家、祭りの様式から、富山県や石川県、新潟県から移住してきたのだと分かる土地もある。また、北海道では「わや」という方言があり、端的に言えば「ヤバイ」という意味になるのだが、岡山県倉敷市で「本当にわやじゃ、わやって意味分かる?」とご老人に言われたとき、「北海道でもわやって言いますよ」と答えて驚かれたことがある。これも本州の人々が伝えたものに違いない。

 北海道の文化は、地中の奥深くまで染みこんでいるオホーツク、アイヌの文化のなかで、本州から移住してきた人々が当初はこじんまりと、そして国の移住政策が進み、政治と経済が中央の政府と接続するにつれてより大きく、彼らが元来共有していた文化を展開していった、という背景がある。(ここでアイヌの人々の土地を収奪したり、差別的な扱いをし、そしてそれは今でも禍根を残すこととなった、ということを忘れてはならない。)

 さて、「移住」と書いた。北海道への移住には、どのような特徴があるのか。私が着目したのは、「災害に遭った人々の移住先」として北海道が長らく機能してきたことだ。奈良県十津川村から北海道の空知地方に移住した要因は、明治22年に発生した甚大な水害のために元々暮らしていた場所に暮らし続けることができなくなったからだ。また、先述の「岐阜地区」も、明治30年の濃尾大地震により、被災者が移住してきたという記録が残っている。それだけではない、全国各地で今で言う「激甚災害」が発生した時に北海道への移住が激化している。

 貧しい人々が新天地を求めて北海道移住を決行した、というイメージが強い。しかし、それだけではなく、国が被災者に対して仮設住宅を提供したり、義援金を設けたり、国や自治体の予算のなかに補助金を設けたりなどといったケアをする代わりに「被災地ではもう暮らせないので、何もない北海道を開拓して住みかを確保せよ」という、今思えばきわめて責任放棄も甚だしい対応が行われていたのである。

(続く)