27 読書ノート(1):ソヴィエトで生き残るための「二枚舌」 ー亀山郁夫『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』

20190915 日曜日

 

 また亀山郁夫はお気に入り作曲家ショスタコーヴィチへの愛を止められなくなってしまったらしい。ノンストップ・ラブを感じる。分野違いでスノッブを気取った年寄りの大学教授が妄言を垂れ流しているのとは一線を画しているように思えるが、研究者からの評価は褒貶いずれもあまり聞こえてこない。まあ、亀山郁夫はいろんなところでショスタコーヴィチへの愛を語っているから、「また言ってんのか」みたいな感じなのかもしれないが。

 亀山郁夫は日本で一、二を争うロシア文学者であり、外語大の学長も長年務めたエラい人である。というよりも、光文社古典新訳文庫の刊行がスタートしたときから『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』等、ドストエフスキーの大著を訳し直して、バンバン世に出した人と言ったほうが、その凄さは伝わるだろう。『悪霊』に誤訳が多すぎて批判に晒されたのはさておき。

 今回読んだのは、先日購入した『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』(岩波書店、2018)。『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(岩波書店、2002)の「テロルと二枚舌」で書ききれなかったものを書き切ろうということだったのだろう。交響曲ヴィオラソナタなど一つ一つの楽曲を、その当時のショスタコーヴィチの置かれた状況やソ連の政治情勢と照らし合わせながら「読解」していくというものだ。

 ショスタコーヴィチ(1906〜1975)は、ソヴィエト連邦とともに生き、そして死んだ音楽家だ。作風は晦渋でありながら、周囲のものを物理的に殴りつけるかのような爆発的なエネルギー、そして時折見え隠れする憂鬱でノスタルジックな響き...とでも言うべきか。亀山の言葉を借りるならば「叙情、アイロニー、暴力」がその特質だ。交響曲第5番第4楽章などはテレビ番組のBGMとしても使われているので、耳にしたことがある人も多いと思う。そして、まさにこの交響曲第5番の創作によって、ショスタコーヴィチは「ソヴィエトが志向する音楽の担い手」、社会主義リアリズムの体現者として認知されるようになった。確かに、フィナーレの輝かしいニ長調などは「革命の勝利と理想的な社会の到来」を思わせ、誰もが熱狂を共有できるような響きなので、体制側も満足するだろうと思う。

 亀山は「テロルと二枚舌」で、ショスタコーヴィチ交響曲第5番を作曲した理由、そして当局がその発表を歓迎した理由を探っていた。

 粛清が激化していた1936年、ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がソヴィエト共産党の機関紙「プラウダ」(機関紙なので当然スターリンの意思が反映されている)で「自然で人間的な音楽ではなく極左的な荒唐無稽」と大バッシングに遭った。当局のバッシングということは命に関わることで、ショスタコーヴィチは「悔悟」の印として5番を作曲したと言われてきた。一方で近年は、ヴォルコフなどの研究で、「二枚舌」を使ったのではないかと、見方が変わっている。亀山もその見方に則しながら、1936年以降のショスタコーヴィチの作品や、彼の周りの状況を丁寧に検討していく。スターリンの意向が強く反映された当時の政治情勢や、強まる検閲のなかで殺害されずに仕事をするために、慎重に当局の顔色をうかがいながら、当局ウケのいい発注を数多く受けていく。

こうして彼は、「サバイバル」を至上課題として行動し、それを内心の口実としながら、みずからの「理想」の実現に励んできたと考えられる。(中略)ショスタコーヴィチの予感は、深く負のヴェクトルを孕みはじめていた。であるなら、それまで積み重ねてきたもろもろの努力が、「理想」の実現とひきかえに、すべて水泡と帰してしまうことだけは避けなければならなかった。「黙示録の年」1937年の訪れを前にしたショスタコーヴィチの耳元にこだましていたのは、大テロルの不気味な予感を高らかに響かせる死刑執行社たちの靴音だったからである。 ー亀山郁夫『磔のロシア』(岩波現代文庫、2010)「テロルと二枚舌」p282

 この状況下で創作したものが交響曲第5番であった。

youtu.be

発表と同時に人民を熱狂させたこの音楽について、亀山は、タラスキン、ガーチェフ、バールソワなどの解釈を引用しながら、こう結論づける。

社会主義リアリズムの音楽、あるいは勝利の音楽ではなく、スターリン権力のもつ悲劇性を、肯定と否定に揺れるアンビバレントな意識のなかで体現した音楽、あるいは、スターリン権力をめぐる、一種のメタ音楽だったといえるかもしれない。 ー同上p299-300

 交響曲第5番のフィナーレは確かに輝かしいものかもしれないが、前段はどうだろうか。たしかに、重い足取り、満ち満ちた苦痛、第三楽章の陰鬱な弦楽器のすすり泣きをふまえると、爆発的な歓喜はどこか空虚で寒々しく、脈絡のないものだ。どこか自傷的とすら感じられてしまう。亀山は、この「意味の把握しづらさ」を「曖昧さの肯定」として捉える。批評家の批判に晒され続けながら理想をかなえるために磨いた技術や、粛清への恐怖、しかし親類や友人らが粛清に遭ったことへの哀悼や創作への情熱...当時のショスタコーヴィチの心中には、到底、一緒くたになぞできない感情が入り混じっていた。その結果、ショスタコーヴィチが到達した結論は、時代を肯定も否定もしないということー「未来に向けて投げ出さなくてはならなかった」。

 そして、この曖昧さは、当局にも躊躇させることとなった。この音楽を当局批判として捉え、ショスタコーヴィチに何らかの罰を与えるならば、聴衆が熱狂していることも踏まえれば、自分の首を絞めることになりかねない。ならば、自らの都合のよいように「勝利」の文脈で読解し、許容しなければならなかったと亀山は指摘する。こうして、苦肉の策を講じたショスタコーヴィチの真意は何だったのか。

 亀山はフィナーレの大太鼓の轟音が8連打であることと、棺に打つ釘が8つであることを念頭に置き、このように締めくくる。

大太鼓の轟き、そして棺の釘は、騙された民衆と国家の融合のモチーフであるが、その融合はまさに死なのだ。全体主義の確立ー。 ー同上p302

 さて、この「テロルと二枚舌」で発見したショスタコーヴィチの傾向をもとに、彼の生涯とその創作物へと検討の射程を広げたものが今回の『ショスタコーヴィチ』である。ちょっと疲れたし、明日も仕事なので、とりあえずここまでにしておく。